伊奈忠次・忠治墓
〒〒365-0038 埼玉県鴻巣市本町8丁目2
徳川家康の関東入封における伊奈忠次と大久保長安の功績は大きい。
長安は街道整備、中でも一里塚の創建に余念がなかったし、伊奈一族は、関東の利根川、荒川を初めとした河川の治水そのほとんどを担った。
中でも江戸八百八町と言われる世界一の都市江戸が最盛期を迎えたのもこの両名の貢献が大きいと言える。
水浸しだった江戸は、一級河川の流れを変え、または二手に分けるなどの創意工夫をもって人々が住める土地と変革していったのである。
利根川は、江戸湾に流れていたがこれを銚子に向かわせた。
忠次の時代この「利根川東遷事業」が成される事はなかったが、この大事業のおかげもあって伊奈家は徳川家にとって、なくてはならない譜代となった。
利根川の東遷事業が完成を見せたの忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654)に完了した。
他方で荒川もまた、荒ぶる川として人々に天災をもたらしたが、忠次は現在の熊谷市久下あたりで荒川の流れを変えた。
現代では、荒川と元荒川の流れが分離され安定した農耕地となっている。
我が藩が10万石を保っていられたのも 大久保殿と伊奈殿のおかげであるという事はいつの時代でも感謝に絶えない。
実は、我が家の家計帳を見ると忍藩は秩父領、鉢形領などの飛地を合わせると10万石ではなく14万あったそうな!
という古文書をどこかで見た記憶がある。
勝願寺方面には、現代においても足を向けて眠れない。
そうそう、このお寺様には他にも英傑が永眠している。
「戦国三大女傑」と謳われた、本田忠勝殿の娘、そして真田信繁殿(幸村)の兄、真田信忠殿の妻「小松姫」の墓もこの寺にある。
是非一度、ご訪問されたし。