おしたび

長野口御門跡

〒361-0073  埼玉県行田市行田25

長野口は、忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野口御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。 戦国時代の天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めたに、ここで激しい攻防戦が行なわれたことが「成田記」、,戦記』、『関八州古戦録』などに記されていますが、これらが記されのは、合戦から100年以上も後で、その内容をそのまま史実あると考えることはできません。 その当時、長野口のある下町はしもまち社の門前町として市が立ち、忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。 忍川には船着き場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。 江戸時代の享保13年(1728)に見沼代用水が開削されると、やがて船運が盛んになり、長野口は船着き場として繁栄して行きます。 行田市教育委員会 行田町の北東の固めとして長野口御門は船着き場としての繁栄と共に重要さを増し 高札場の番所も出来 人の出入りに賑わった。
御門の北は小沼堂ともう一つの島で一帯は大きな菖蒲の名所であった。
昭和54年3月
建立:行田ライオンズクラブ
協賛:関田 栄一
行田ライオンズクラブ そして幕末には、長野口御門に番所や高札場が設けられるほどの賑わいをみせるようにならました。 しかしながら明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達とともに衰退して、かつての賑わいは失われてしまいました。

長野口御門跡

日本三大水攻めの一つに数えられる忍城水攻めの際に石田堤が決壊し、水攻めが失敗に終わった石田三成軍は、武力によって力攻めの落城を決行した。

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