おしたび

持田口御門跡

〒361-0057  埼玉県行田市城西3丁目2

持田口は、忍城の西口の守りの拠点で、かつては持田口御門が設 けられ、二重の曲輪と二重の堀で護られていました。持田口御門を くぐると、そこからが忍城の城内になるので、堀に掛かる二重の橋 で、門の存在が城外から見えないよう隠してもいたようです。
戦国時代の天正18年(1590)に、石田三成らの軍勢が忍城を 攻めた際、ここで真田昌幸・幸村軍と、甲斐姫率いる城方の攻防戦 が行なわれたことが『成田記』には記されていますが、「成田記』 が記されたのは合戦から200年以上も後になってからで、その内容 をそのまま史実であると考えることはできません。
江戸時代に入っても、持田口は忍城の西口の固めとしてその役割 は大きく、持田口御門には門番がいて厳重に警護され、武士以外の 出入りは禁じられていたようです。

しかしながら明治維新後に持田口御門が取り壊され、現在の国道 125号線が開通すると、この付近の様子も大きく様変わりして行き ました。

忍城西口の固めとしての役目は大きく この御門から城内となって侍以外の出入は困難であった
明治十五年頃 本町より諏訪曲輪を東西に横断しここに到る新道を計画し 十数年が、りで行田町から熊谷宿へ行く街道となった
昭和五十四年三月
建立:行田ライオンズクラブ
協賛 :海谷 清

持田口御門跡

周辺写真・関連写真

持田口御門前跡にある時計台
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